2011年7月29日金曜日

アジアの片隅で


1980年 吉田拓郎 『アジアの片隅で』
「アジアの片隅で」作詞/岡本おさみ 作曲/吉田拓郎

アジアの片隅で 狂い酒飲みほせば
アジアの片隅で このままずっと
生きていくのかと思うのだが

アジアの片隅で お前も俺もこのままずっと
アジアの片隅で このままずっと生きていくのかと
アジアの片隅で この国で この街で

東北地方、宮城県中心部の太平洋岸には、いくつかの原子力発電所、核処理場が連なるように建設されていた。軍は秘密裡にそれらの施設を隠れみのにし、核兵器開発、生産を行っていた。
そして、201X年に巨大地震が東北地方を襲った。震源地は仙台市沖3キロ、深さは10キロとごく浅く、マグニチュードは8.7と推定された。大地震によって、軍が既に完成させていた長距離核ミサイルが爆発、原子力発電所、核処理場も誘発される形で爆発炎上、もしくは崩壊、メルトダウンを起こした。被害は過去に落とされた2発の原子爆弾の数10倍にも及んだ。その大地震は東日本大震災と呼ばれた。

仙台市を中心に核汚染エリアは歪んだハート型に広がっていった。核汚染ゾーンは立ち入り禁止とされ、地図上では白く塗り潰された。白いハートゾーンは福島、宮城のほぼ全域と山形の南部地域の三県に及び、琵琶湖の30倍の面積にもなった。ゾーン内の倒壊したビル、家屋はそのままに、電信、運輸、交通機関は全て止まったまま放棄され、住民には避難警告が発せされた。ゾーン内に居住することは禁止された。それでもゾーン内には、警告を無視してその土地にとどまる人が少なからずいた。その多くは農業、漁業を営んでいる人々で国からの援助は全くなく自給自足の生活を強いられていた。関東地方から岩手、秋田、青森の三県に行く陸路は全て塞がれ、またその逆も同様だった。数百万人にも上る被災者の多くは、本州の中で取り残された形になった青森、岩手、秋田の三県に、若しくは関東以西の都市部に避れていった。ゾーンには鉄条網が高く長く張り巡らされ、要所に検問所が設置された。ゾーン内への出入りは軍の厳重な警戒体制の中でのみ行われた。太平洋には、セシウム等放射性物質が大量に流出、向こう50年、その100海里内は禁漁、操船禁止とされた。

13年ぐらい前にある物語を書こうと思い、箱書きを書いた。
その設定メモの一部が上記の内容だ。
今日、データを整理していたら出てきた。
一切書き加えることはしていない。
この前後もだらだらと長々とあるのだが、
移民法成立、北海道独立、日本は警察国家化していき、、、
まあ、まあ。

80年代、拓郎のライブでは定番だった「アジアの片隅で」は、
拓郎の叫びが遠くなるにつれ、歌われなくなっていった。
いま、この歌を切にリクエストしたい。

2 件のコメント:

  1. その先の結末は?
    それでも生きていかなければならないのだとしたら、
    大事な人の手は、離してはだめですね。

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  2. この13年前に書いた物語の結末は。。。
    主人公の少年は目的を果たすことなく死んでしまうんだ。
    書きながら悲しくて泣いたよ。
    でも主人公は何が大切なことかわかっていた。

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